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2014年7月

草勢(樹勢)ってなに?

先日、若いJA職員から質問を受けた。
「すいません、ちょっと質問いいですか?」
「ええよ、何?」
「草勢って言葉あるじゃないですか。それってどういうものですか?」
ふむ。当たり前のように使っていて、きちんとした定義をあまり考えていなかった。はっとしたが、わかりやすくイメージを思い浮かべてもらえばいいかと、そのときに自分がした説明は次のような感じだった。

植物には生育ステージと言うものがあって、それぞれに適正な生育というものがある。そのときにどういう対応をすればいいのかを判断する基本になるのが草勢とか樹勢と言うものになる。
一般的には、強いとか弱いとか表現するが、ステージごとに最適な強さは違う。例えばオクラでは初期に肥料を与えすぎると草勢が強くなって花が付かなかったり、付いた花が落ちてしまったりする。オクラ以外でも果菜類は初期に肥料を効かせすぎると花が付きにくくなって予定通りの収穫開始にはならなくなったりする。しかし、いつまでも肥料を控えていると、今度は植物体が大きく育たず、品質や収量が落ちるので適正な肥料を施すが、この適正な生育を判断するキーワードが「草勢(樹勢)」である。

オクラの場合、草勢はどこで判断するかと言うと発芽後の日数から想定される草丈以外にはまずは葉の形である。肥料が効きすぎ、草勢が強すぎると葉の切れ込みが少なくなり、丸っこい葉になる。もちろん、窒素の効き具合によって植物体全体の葉の色の濃さが変わってくるので、それも重要なポイントになる。ある程度大きくなってくると、花の咲いている高さも判断の対象になる。総勢が弱いと生長点の直下で花が咲き、旺盛だと花までの展開葉が多くなる。これを適正に保つために肥料を調節したり、下の葉を掻き取ったりするのである。

また、ナスでは草勢が弱ってくると短花柱花といって雌しべが短くなり、雄しべの中に隠れてしまう、等が指標になったりする。

といったように、具体的な例を挙げて、植物の生長が旺盛に行なわれているかどうかを見たものが草勢になるが、必ずしも強ければいいというものではないと言うことを理解してもらった。また、生産者には草勢が落ちてくるととかく肥料をやりたがる人がよくいるが、それだけで草勢が回復するとは限らないし、回復したところで逆に病気に罹りやすくなることもあると言うことも話しておいた。

そのときの話には出てこなかったが、例えば以前のエントリーに書いた植物の奇形についても草勢が強すぎるとイチゴの鶏冠果やマーガレットの石化なども出やすい傾向があるし、弱らせるとやたら花をつけようとしてなおさら弱ってしまうということもままある。

以前から何度か書いていることだが、草勢を適切に判断することは上手に農作物を栽培する基本だと思う。自分が栽培している農作物をきちんと観察し、その変化に気づき、適切な対応をする。適切に草勢を判断し、生育ステージにあった対応をきちんとできる人が上手な生産者なのである。

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【告知】第2回ひやあつカフェ開催します

テーマ:農と自然の関わりについて
話題提供:がん(主催者)
日時:平成26年8月30日(土) 14:00〜
場所:讃岐漆芸美術館 カフェコーナー
   香川県高松市上福岡町2017番地4
   087−802−2010
 http://sanukisitsugei-gallery.at.webry.info/ 
人数:10人程度

参加費は頂きませんが、カフェコーナーにて飲み物を一品ご注文頂くこと、カフェ終了後に漆芸美術館を必ず見学頂くことが条件になります。
参加ご希望の方はこの記事にコメントをおねがいします。

讃岐漆芸美術館は駐車場が少ないので、できるだけ公共の交通機関でお越し頂くか、乗り合わせでお願いします。場合によっては、主催者で最寄り駅より送迎します。

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半夏生と解釈改憲

半夏生、という言葉を見かけて思い出したのだが、この日までに農家は田植えを終え、この日を休みとすることが多い。特に四国地方では「さのぼり」という田の神を送るという行事を行い、香川県では地区にもよると思うが打ち込みうどんを食べたりする。これがどじょううどんのところもある。

自分は直接その運営に関わっていないので詳しくわからない部分もあるが、その昔は農業関係の公的機関でもさのぼりの日はその行事が終わったあとは仕事をしなくて良かったらしい。お昼になると早朝から女性の臨時職員に出てきてもらい、大量のおはぎとうどんのだしを作ってもらっていた。

もちろん、早朝から働いていてくれた女性臨時職員の方たちには行事が終わり次第帰宅してもらっていたという。それらが正規の手続きを経て早朝出勤及びその振替休としていたのかは自分にはわからない。とにかく、現実にはそういう手順で行事が行なわれていた。

もちろん、現在の基準からすれば「良くないこと」なのだろう。いや、当時としてもやるべきではなかったのかもしれない。そこは自分にはなんともいえない。しかし、そういうものなのだ、と思っていたという事は反省も込めて正直に告白しておきたい。

ともあれ、そのように一定の人が懐かしがる「昭和の時代」は「情」によって都合よくルールが解釈され、運用されていたと思う。それはもちろん良い面もあった。「さのぼり」の例ではそれには該当しないと思うが、そういった「温情」によって救われた人もたくさんいただろうと思う。

しかし、人間というのは縛りがなければゆるいほうに流れていくことが多い。もちろんそうでない人も多いが、そういう情によってルールを緩く運用することを許すという事はそれを悪用する人物も必ず出てくる。さらに、明確なルールがなく、慣習だけしか存在しないならなおさらだ。

そういう場で人間関係を構築していく場合、特に立場が上の人間はしっかりと自分を律することが出来る人物でなければ、セクハラやパワハラを生んでいくのだろう。それが社会では「必要悪」と思われていたのが昭和という時代だったのではないだろうか(あえて昭和で区切っています)。

だから、「情」で救われていた、そのおかげで生きやすかった人達が自分にとっての「古き良き」時代を懐かしむのはよく理解できる。大きな逸脱がなく、全体としてその方が効率よく仕事などが回っていくならそういう緩い社会のほうが生き易くていいのだろう。

自分などは勤勉には程遠い人間なので、そういう緩いルールをうまく回していく社会のほうがうれしいが、しかしそれだと現代においてはデメリットのほうがはるかに大きいのだろう。自分の周りでも、そういう慣習的な部分を自分に都合よく解釈して周りに迷惑を掛けている例がある。

社会的な例で言うと、わかりやすいのはセクハラ、パワハラだろう。また、食品関係では豚のレバ刺しを店で出す、などだ。これらは明文化されたルールがないのをいいことに、自分に都合の良い解釈をした結果、より厳しい社会を生み出し、自分で自分の首を絞めているわけだ。

色々ルールは細かくなって、一見厳しいようだけどそれはみんなが安心して平等に暮らすために少しずつ改良されてきたものだ。もちろん完全ではないけど、そのおかげで救われている人は昔より増えているはずだと思いたい。間違っているなら、きちんと手続きを経てルールを変えるべきだ。

だから、今回の内閣が推し進めている解釈改憲はその内容の是非はおいておくとしても賛成できない。こんなことをしていると現行政権は必ず痛いしっぺ返しを食らう。そうでなければこの国の行く先は真っ暗じゃないか。

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