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2011年4月

いかにしてさぬきうどんは「さぬきうどん」たりえたのか(大げさ)

さぬきうどんは、今では香川県を代表する食品であり、1世帯当たりの消費量も33.2kg(2008年)で日本一である。全国平均が15.7kgであるからほぼその倍、2位の秋田県でも22kgであるからその突出振りは見事なものと言える。これはうどん屋の店舗数と相関があるらしく、人口10万人あたりの店舗数も65.77軒(2010年)と全国平均の3倍ほどであるようだ。一昔前には交通信号よりうどん屋のほうが多いと言われていたこともあるほどである。

一般的には腰の強い、噛み応えのある麺がさぬきうどんの特徴と思われているが、その腰の強さ、食感についても多種多様で一様ではない。県民の多様な好みに応えるべく太さ、腰、固さ、だしのとり方、濃さまで本当に様々である。もちろん、福岡や伊勢のうどんのようにあそこまで柔らかな麺は存在しない(そのあたりは同じ「うどん」カテゴリーに入ってはいても、別の食べ物である。それを理解していれば、どちらが良いではなく、それぞれにおいしい)が、一杯食べ終わればあごが疲れてしまう固い麺から非常にやわらかい食感なのに腰があり噛み応えもある麺まである。出汁もかつお、いりこ、昆布などを組み合わせ、それぞれ独自の味を出している。変わった所では猪肉でだしを採ったうどんも存在する。

なぜ、香川県でこのように他地域と比較にならないほどのうどんの発達が見られたのか。俗説としてよく言われるのは讃岐出身の弘法大師が唐に渡った際、うどん作りに適した小麦品種と製麺技術を持ち帰ったと言うものだが、これは弘法大師に強烈なシンパシーを持つ香川県民が創作したものであると考えるのが妥当だろうと思う。弘法大師以前の遣隋使や遣唐使が持ち帰ったとされるのが定説としては有力で、これを宗教者であると同時に万能の科学者でもあった弘法大師に重ね合わせたのだろう。

さて、このうどんの伝来についてははっきりした資料が存在しないが、香川県におけるうどんが登場する最も古い資料としては今から300年ほど前の元禄年間に金刀比羅宮の大祭の様子を描いた「金毘羅祭礼図」と言うものが存在する。これには、当時の神事の様子が描かれているが、その中にすでに3軒のうどん屋の存在が確認できると言う。また、江戸時代中期に大坂で発行された「和漢三才図絵」には小麦について「諸国皆これあり、讃州丸亀の産を上とす」とあり、讃岐産の小麦が品質がよかったと言うことが当時から認められていたことがわかる。

また、香川県はたびたび旱魃に襲われ、水稲作もままならず飢饉に陥った年も多かったため、それを補うために麦の栽培が増えるのは自然な成り行きだっただろう。そういった背景もあったためか、香川県ではハレの日にうどんが振舞われることが多い。最近時々見かける地方をクローズアップするテレビ番組で取り上げられて有名になったものに、「新築の家ではお風呂でうどんを食べる」という香川県の習慣などがその代表的なものだろう。ただし、あれは香川県全域で行われているのではなく、ごく一部のものである。少なくとも、高松市から東の地域ではあまり聞いたことはない。とはいえ、田植えが終わったときの行事である「さのぼり」には必ずうどんが振舞われるし、「はんげ(半夏生)」にはスタミナ強化のためか泥鰌うどんを食す習慣もある。もともと、特に中讃地域ではうどんは各家庭で打つ料理だったが、そのうち製粉をするところでうどんを打ち、それを近所の人が買うようになったのではないだろうか。それが、店頭にどんぶりを持ち込んでしょうゆなどをかけて食べるようになり、最終的に製麺所が出汁まで提供して食べさせるようになったように思う。現在でも、麺とどんぶりだけ提供し、出汁すら店頭には置いていないという店も存在するくらいであるから、この推測は当たらずとも遠からじといったところだろう。ちなみにこの店は、製麺所ですらなく「米穀店」なのである。20年ほど前までは知る人ぞ知るといった穴場店であったのに、今では超有名店になってしまったので、あえて情報はここまでとしたい。興味をもたれた方はご自分で調べてみてほしい。

とにかく、讃岐では古くから何かあればハレの食事として「うどん」が振舞われていたことは間違いない。そのために昔から消費量が多く、競争も激しかったのだろう。各家庭ごとに「我が家の味」もあったに違いない。それをお互い振舞い振舞われているうちに「おいしい」ところが商売として成り立つようになってきたのではないか。その中で「腰の強さ」が鍛えられ、文字通り練り上げられていったのだろう。古くから讃岐に住み続ける人々に招待され、うどんを振舞われ、そのこだわりに触れるうち、そんな思いが強くなってきたのである。

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方便を使うこと 「もう一度生まれてきても」

普段自分は、いろいろな物事の説明に科学的であることを心がけているし、求めてもいる。しかし、心情的には科学では割りきれないし、割り切りたくないこともある。自分の子供が初めて「死」というものを意識し、それに対して恐れを抱いているときに親としてどういうことができるのか。そのときに、宗教的考え方を説明することで安心させるのは「方便」として適当なのか。それについて考えてみたい。答えは出せないかもしれないが。
そこで、以前mixiの日記に3年前に書いた内容を転記する。読み返してみて、文章的にどうかと思う部分もあるが、子供達の名前の部分を除き、あえてそのままとした。

***引用ここから***

ある日、末娘がぽろぽろ泣いていた。

「どないしたん?」と聞くと、
「あのね、人間て死んだらどうなるん?
心はなくなるんかな?死んだら終わりなんかな?」

どきっとした。どう答えたらええんやろ。
とりあえず、仏様に頼ることにした。
「あのな、ええことして死んだ人は天国に行くねん。
ほんで、仏様や神様と一緒に楽しく暮らすんや。
悪いことして死んだ人は地獄へ堕ちて、
えんま様や鬼にいじめられてずーっと辛い目に遭うねんで」
それから、輪廻転生(生まれ変わり)のことなどいろいろ説明した。
ちょうど、お寺で買ってきた「地獄と極楽」という漫画も
あったので、それを見せてみたりもした。

「今度生まれてきても、家族は一緒?」
「さあ、お父さんにはそれはわからへんなあ」

すると、またぽろぽろ涙を流しながらこう言った。
「また生まれてきても、お父さんの子どもがええ」
「そう。そうなったらええな」
ぎゅっと抱きしめて、こっちまで涙が出そうになった。

「大阪のおじいちゃんは、まだ天国におるん?」
「たぶん、おるんちゃうかなぁ。
お父さんももういっぺん逢いたいし」

すると、黙って聞いていた長男がぼそっと言った。
「お父さん、俺が死ぬまでおってな」
「あほか、お父さんの方が先死ぬに決まってるやろ」
「ちゃうわ、俺が天国に行くまで、
生まれ変わらんと待っとってな、ていうことや」
「そんなになってもお父さんに会いたいんか(笑)」
「うん」

たぶん、自分の子育ては間違ってなかったんだと思えた出来事でした。

***引用ここまで***

これを書いたとき、子供達はいい子に育ってくれた、ええ話やなぁと自己満足していた。もちろん、優しく思いやりもあり、当然子供なので未熟な部分の方が大きいがそういう意味では悪くない子育てができていると思ってはいる。しかし、今回言いたいのはそこではなく、子供達を安心させるためにとはいえ、宗教を持ち出したことが果たして良かったのかということだ。大人になってから、というかなる前に将来のために科学的思考ができるようになって欲しいと思っていながら矛盾した考え方を教えている。いや、大きく間違ってはいないかとも思うが、どのタイミングで修正するのか、自分で身につけてくれるのを待つべきなのか。
科学と優しい心の持ちようは対立する概念ではないが、科学は時に冷酷でもあるからそのバランスを失わないようにしたい。なかなか正解はないと思うが、努力を放棄したら、その時点でおしまいだから。

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