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2010年4月

なぜ人工物は嫌われるのか?

以前から、有機農作物など天然や自然に対する消費者の信頼感というか、志向について何度か論じてきた。天然だから良い、人工的なものだから良くないという二分法的な考え方から脱却して、科学的な視点で冷静に思考することを自分としては主張してきたつもりだ。

しかし、こんな辺境からブツブツ言っているようなところは別にして、世の中にはもっと影響力のある人たちが私と同様な主張をし、ネットなどで発信されているにもかかわらず個人的な印象としては状況はほとんど改善されていないように思える。まぁ、それは科学的視点を持っている人は概して冷静なので、その主張が目立たず、そうでない人のやかましい主張のみが目に付くということなのかもしれないが。

そこで、なぜ人工的な、特に化学的なものが嫌われ、天然物は信仰に近いのではないかと思えるほどの信頼感が得られるのかということについて、いろいろと思うことがあるので論じてみたい。ただし、これから展開する論については、まったくの思いつきに過ぎず、根拠はまったくない。つまり科学的でないためそこのところはあらかじめ割り引いてヨタ話としてお聞きいただきたい。それに、もしかしたらすでに心理学の世界ではとっくの昔に答えが出ているのかもしれないが(しかも今から論じる内容とはかけ離れた結論で・・・)、あえてそこは無視して話を進めたいと思うので、そっち方面に詳しい方は笑って見過ごしていただきたい。

さて、唐突だが皆さんはどのような死に方をしたいだろうか。永遠に死にたくはないあるいは縁起が悪いので考えたくないとおっしゃる方もいらっしゃるかもしれないが、とりあえず生あるものいつかは死ぬ、ということでそこへ思いをめぐらせていただきたい。
少なくとも誰しも苦しみ抜いて苦悶のうちに果てたいとは思うまい。大多数の人が人に迷惑をかけることなく元気なまま徐々に年を取り、ある日突然ポックリ逝く、あるいは老衰で眠るように静かに逝くというのを望むのではないだろうか。いずれにしても、長く苦しんだり、残虐な殺され方をしたりするのは望むところではないだろう。
つまり、十分に生き、人生を全うする。その途中で理不尽な力によって人生を奪われるのは真っ平ごめんだということなのかと思う。

ここで話を人工物と天然物に戻そう。天然物は安全・安心で人工物(化学物質)は危険が多いという二分法的な考え方が間違っていることは何度も主張していることであるが、人工物に対する忌避的感情はただ単に命を縮める度合いだけで図れるものではないのかもしれない。もしかしたら人間は、自分の理解を超えた未知のものに対して理性を超えた感情的な恐怖心を抱くのではないか。タバコや、アルコールは寿命に対してリスクの大きい食品であるが、理性的な部分では命を縮めることがわかっていることでも多くの人がその摂取に躊躇することはない。タバコは見た目だけでは寿命を縮める事に対して直接的な関係を見出すことはできにくいが、アルコールでは急性中毒や間接的には飲酒運転で人が命を奪われることがあるにもかかわらず、ほとんどの人が恐怖心を抱くことはない。また、最強の天然発がん性物質であるアフラトキシンについても、それを含んでいる可能性のある古いナッツ類もおそらくほとんどの人がそれとわかっていても平気で口にするだろう。
もちろん、それらが直接の原因になる事によって死に至ることは日常的感覚としてはそれほど高いとは思えず、「自分だけは大丈夫」という人が抱きがちな根拠のない感覚を覚えるからだろうが、それなら食品添加物や農薬など化学合成の人工物でもそれが直接の原因で死に至った人などほとんど存在せず、身近でそのような死に方をした人がいるという経験をした人だってほとんどいないだろう。にもかかわらず、人工物は忌避されてしまう。はっきり言って、交通事故のほうがはるかに死亡率は高いのではないかと思うが(根拠なし)だれも自動車やバイクを禁止しようとは言わない。なぜか?

おそらく人工物、とくに化学合成物質についてはそれによって健康を奪われた場合どのような苦しみが待っているのか想像がつかないというところに恐怖を覚えるのではないか。ここで最初のほうで話をした死生観につながるのだが、穏やかに終わるはずだった自分の人生に対して望むことのなかった人生の幕引きをされるのが我慢ならないのではないか。人間が文明活動をしていなければ生まれてくることのなかった”もの”で横槍的に人生を終わらされたのではたまったものではない。しかも、これまでの人類が経験をしたことのない苦しみ方をさせられたのでは・・。

このあたりのところ、どのようにデータを提示し、リスクとは一面的なものではなく多面的に総合して考えるものだと理屈を説明しても、そしてそれを理性的な部分では理解できたとしても本能的な恐怖を払拭するのは難しいのかもしれない。科学が未発達であった昔(どのくらい昔かはとりあえず置いといて)なら未知のものに対する忌避感情はおそらく生存にとって有利だったのだろう。そうやって長年人類を生きながらえさせてきた、刷り込まれた感覚はかなり強固なものなのではないだろうか。

こういう事から考えると、自然信仰やそういった感情をうまく利用した偽科学商法などに対抗するのは相当に骨の折れる作業だと思う。しかし、少しでも正しい行動ができる人を増やしていくことは、つまらない事に消費されているリソースを正しいリスク削減にまわし、少しでも多くの人にベネフィットを分配できるという事につながる。本当に極めて微力ではあるが、私ももっと頑張りたい。ただ、常に正しいことを言えているかどうかは少々(なのか?)不安もあるので日々精進を重ねていかないといけないのだろうな・・・。

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ご紹介『疑似科学とのつきあいかた』

長崎大学教育学部教育学研究科で表題にある『疑似科学とのつきあいかた』という小冊子が教材として作成されたという情報を友人である黒猫亭さんのブログで知った。黒猫亭さんのところに書いてあるとおり、彼自身がhietaroさんのブログから情報を得たらしく、またその筋ではちょっと知られたpoohさんもリンク張りを表明されていると言うことである。

やり方まで全く黒猫亭さんの後追いで申し訳ないが(苦笑)、ここにあげてある皆さんが紹介しておられると言うことで、私自身はまだ中身を十分に吟味していないのだが少しでも沢山の人に知って頂きたいということで、私のところでも紹介しておく。少しでも興味を持たれた方は是非お読みになることをお勧めしておく。

でも、ここを読んでいる人っておそらくほとんどの人が偽似科学に対する認識には問題ない人ばかりなんだよなぁ・・・・。

ところで、今日はいつも農業関係の仕事をしながら考えているなぜ「科学的なもの」が嫌われて、「自然なもの」が好かれるのかを自分なりに考察したものを書こうと思っていたのだが、たまたま黒猫亭さんのところを覗いたらこういう記事があったのでそっちを優先してしまった。いや、二つとも書いたらええんですが、今日は少年野球のコーチで疲れたので勘弁してください。・・・って誰も待ってないか(笑)。

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